やしきの板塀
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タイトル 市内の2つの謎の寺
記事No: 3723
投稿日: 2021/12/07(Tue) 12:42
投稿者としき@家主
参照先http://toshiki.la.coocan.jp/
私の住んでいる日野市には、2つの謎の寺があります。
「あります」という表現も、実は微妙に不正確。
なぜなら、そのうちの一つは「過去にあったらしい」であり、もう一つのほうも
「実はなかったらしい」だったりするわけですから。


謎の寺その1「真慈悲寺」。

この寺、現在はありません。
平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて存在していた模様。
最盛期は結構な大寺院だったらしい。
平安時代にどれくらい大きかったかはわかりませんが、平安時代末期に荒れ果て
ていたものが再興し、鎌倉時代初期には、当時の浅草寺や武蔵国国分寺と同格と
いわれるほどに復興を遂げたのだとか。もっとも、当時の浅草寺が現代の浅草寺
に比べてどれくらい大きかったか小さかったかは私にはわかりません。とはいえ、
国分寺といえば官立だったはずなので、鎌倉時代になっていくらか衰えていたと
思いますが、それと同格というのはかなりなもののはず。
ところが、文献的にわかるのはその程度。いつできていつなくなったかも不明。
一応、昔から、日野市の南東端、私の実家の近くにあったらしいとは推測されて
いました。現在は京王百草園となっている梅の名所がありますが、ここは明治の
廃仏毀釈までは松連寺という寺でして、伝承では、ここの創建は天平時代らしい。
なので、もしかしたらここは真慈悲寺の塔頭のようなところだったかも。
また、日野市の南東から市境を渡ってすぐのところ、多摩市域を流れているのが
大栗川。これの「大栗」というのは「大庫裏」が転じたものだといわれています
が、庫裏というのはお寺の中のお坊さんの住居のことだそうで。

平成になってからやっと、百草園周辺できちんとした発掘調査が行われて、この
際に多数の遺物が発見されたことで、このあたりの広範な地域が真慈悲寺の寺域
であったと推定されるようになりました。斜面地なんで、山岳寺院の体裁だった
のでしょう。
そして現在も研究は続いています。まだまだ多くの謎が残っていますからね。


謎の寺その2「万願寺」。

現在、日野市の町名の一つである万願寺。モノレールの駅名にもなっています。
この駅は土方歳三の生家や墓所への最寄り駅のため、新撰組方面からも名前だけ
は有名でしょう。
一見、何の不思議もない寺の名前のように見えます。
ところが。
そもそも、そんな名前の寺はない。
現在ないどころか、かつて存在していた痕跡すら見つかっていない。
19世紀のはじめごろといえば江戸時代ですが、その当時の文献で既に
「古くから伝わっている地名だけど由来不明」
みたいに書かれているとのこと。
一体これはなんなんだ。
近くにあった寺の名前が変わった、というのが一つの説。
ありそうだけど、でも、そういう寺の由緒書とかは見つかっていない。
あとは、別のところの万願寺に住んでいた人たちが移住してきたとか。
北海道の開拓とかでわりとありがちなパターン。でも、これも根拠なし。

ということで、これも非常に謎が多い寺だったりします。
 

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